生き物にとっては死は避けるべき事態。
だもんで苦痛やら恐怖やらを感じるし、穢だのなんだのと避けるし忌み嫌う。
そりゃそうだよね。
死ぬのが快楽だったら大怪我だの窒息だのでいちいち恍惚としてたらあっという間に絶滅だわ。
でも、でも、でも。
もう何をどうしても身動き出来ず飲むことも食うことも出来ず、ただひたすら死を待つしか無い状況になったら?
しかも苦痛を伴うような状況で。
それでも生き物である以上、死に対して望みのない戦いをしながら苦痛を味わい続けるのが「生を全うする」ってこと?
なの?
そしてそんな状況にある生き物の横に自分が居たら?
その生き物にとっての「死」は?
自分の「死」とは違うの?同じなの?
死って何?
終焉か?
開放か?
誰の記憶にも残らず、何の形にも残らず、ぼひょう?なにそれ?てかそこに居たの?な死。
いやそれこそが本質的な「死」なんだろうけど。
つまり「死」は「無」と等質になることか?
現世から見ればそうかもしらんけど…
物理的には死ねば誰かの糧になって、それはつまり形を変えた生だとも言える。
前にも考えたけど、生は個としての生より、種としての生のほうが重視されてる気がするので、そもそも個として何か残るほうが不自然な気もする。
あと、俺的には死は生き物すべてがひとまとめに居る場所、生命の母体というか根源へ還るイメージだなや。
これは物理的ではなく哀愁や幸福を感じていた「自分」にとっての「死」
それは鳥だのバクテリアだの区分無く、とにかくすべて混ざりあったひとつの生命のプールへ還ること。
儚い一生、幸せな一生、苦痛な一生、どんなんでも死んだらまた還って混ざり合ってすべての生命で分かち合う。
そして皆同じところからスタート。
つまり個から個への転生じゃなくて、個→死んだら母体に吸収されて均質化→あらたな個、的な。
なんかそう思う。
なんか歳食って死が近くなってきたらそんなことばかり考えるようになったな。
別にそれが嫌ってことではなくて、むしろいろいろな死に触れながら自然に考えるようになった。
今日、切ない死に立ち会ったので、あらためてそんなことを考えた。